河野陽炎の

年表

現在の仕事やライフスタイルに影響していることを中心にご紹介します。

1976年(昭和51年)10月12日

 大阪・泉州に生まれる

戸籍謄本には誤って男性と記載される

幼稚園や小学校ではおとなしく、表情に乏しい子どもだったようだ。


小学4年生

ファミコン全盛期だったが、ファミコンではなくMSXというパソコンを与えられる。

弟はゲームをプレイするのを楽しんでいたが、私はBASIC言語でプログラムを書くことにはまっていく。後に高校で、数学部というプログラミングをする部活に入ることに。

小学5年生

NHK学園の「作文講座」を受講する。

なぜ受講させたのか、両親に確かめるも「あまり理由はない」といった返答しか得られず

中学1年生

ビートルズの”My Bonnie”を初めて聞き、「ボニーは亡くなったのだ」と思い込む。

しかし、大学でインターネットに触れ、自由に調べ物ができるようになってから、自分がとんでもない勘違いをしていたことを知る。

歌は色々な歴史や背景があって生まれることを知り、日本のポップスよりも洋楽にはまっていく。

中学3年生

再びNHK学園の作文講座(読書感想文含むほう)を受講。高校入試で作文の試験があるため。

受講生向けの小冊子に、私の書いた作文を取り上げてもらったことが2度あった。

高校2年生

友人に誘われ4級アマチュア無線技士資格を取る。学校以外で自発的に勉強することを、このとき初めて経験した。

大学入学後、友人の誘いで危険物取扱者(乙4)を取得。大学院在学中にサッカー公認審判員4級、3級、そして工事担任者デジタル第3種を取得し、資格マニア人生が始まる。

1995年 ウルトラマンにはまる

大阪駅で「ウルトラマンフェスティバル」のチラシを受け取ったものの、ウルトラマン用語が分からず。身近な人に聞いてもよく分からず。

インターネットでウルトラマンについて調べるうち、ウルトラマンにはまり現在まで抜け出せていない。

写真は2014年のウルトラマンレジェンドステージ。

大学・大学院在学中

大阪市立大学、大学院にて数学を専攻。在学中にメニエール病と子宮内膜症にかかり、耳の手術を受けることになる。

退院後、少し時間をおいてから、耳の手術を受ける人のためにホームページやブログを作り始める。ブログを通して知り合った人から、後にプロのライターへのお誘いをいただくことになる。


2006年ごろ

ある日、夕食を作りながらパウンドケーキも焼いてみようと思いつき、そのようにする。結果的に、料理もケーキも美味しくできた。

このときから、簡単にできる素朴な味のケーキやクッキーなどに凝り始める。料理も、祖母から教わった通りや、レシピ本通りだけではないアレンジを加えるようになる。

現在、SNSで時々料理とそのレシピ紹介を続けているが、その活動の源流はこの頃にある。

2007年 映画「ブレイブ ワン」を見る

「映画館に行って、目に留まった作品を見る」というのをやってみたくなり、出会った映画が「ブレイブ ワン」だった。人間が銃を持つことの意味やリスクについて描いた、ジョディ・フォスター主演の映画。

とても意味深い作品に出会ったことで、洋画の魅力に取りつかれたようになり、映画館通いやDVD鑑賞に熱を入れるようになる。

2008年~2009年

介護が終わり、燃え尽き症候群になる。
当時はつらかったものの、後にその経験を耳のホームページにまとめたり、仕事で書く原稿にも活かすようになってから、気持ちを切り替えることができた。

2011年ごろ
プロフィール写真撮影

ライターになって何年も経ち、ようやくプロに撮影していただくことに。

金融・経済ライターとしての仕事が増えていたことからスーツ姿での撮影。

2012年10月 放送大学の科目履修生となる

金融・経済の原稿を依頼されることが激増したものの、大学院まで数学専攻だったので基礎知識すら怪しい。

そんな自分を変えようと、放送大学で「経済学入門」を受講し始める。その後、数年にわたっていくつかの単位を取得することになる。

いつか、全科履修生として入学し、エキスパートを取得したいという夢を今もあきらめていない。

2013年5月 ハント症候群になる
2013年7月 乳腺外科で手術を受ける

26才のときから乳腺外科に通院していたが、36才になったとき、エコー画面に何かが映し出され、手術を受けることになる。簡単な手術で済んだものの、入院と前後してハント症候群(顔面神経麻痺)になったため、てんやわんやに!!

これらの経験から得たものは大きく、仕事で執筆する原稿以外に、ブログやnoteなどの場で文章をつづる時間を増やすことになる。

2014年

思いがけない引っ越し

祖母の介護をしながら仕事をしていた実家で、通信障害がひどく電話もままらなない状況となり、引っ越しをすることに。

放送大学・大阪学習センター近くのシェアオフィスにあこがれていたが、実際に引っ越したのは実家よりさらに郊外の地域だった。

現在の自宅から最寄りの駅まで徒歩30分かかることや、水田に囲まれた環境で暮らしていることなどが、後にセミナーの大切なネタとなる。

2015年6月 

ヨットに乗り始める

2014年夏、ライターとしての興味から訪れた大阪北港ヨットハーバー(当時の呼称)。

偶然に、知人がヨットに乗っていることを知り、海のことを教えてもらうようになる。

2015年6月、大阪北港ディンギーが主催するヨット教室に参加する。知人は「体重がなさすぎる河野さんが、ヨットに乗るのはきっと難しいよ」と止めたものの、私は「やってみて『できない』と納得すれば、やめる」と知人を押し切る形になった。

2015年9月 チェーンソーの資格を取る

造園業をしている人から、労働安全衛生法による特別教育が受けられる教習所のことを教えられる。

泉州から近い教習所には希望する講座がなく、コマツ教習所・奈良センタにて伐木等の業務の教習を受け、修了証をもらう。

この資格について人に話すと、その相手から変わった人と思われる副作用のようなものが出る。

2016年12月 キュレーションサイト問題

Webコンテンツの世界が大きく変わるきっかけとなったキュレーションサイト問題が発生。

この問題以降は、単なるライティングマシンとして扱われるような仕事の依頼はすっかり減り、知識や経験に裏打ちされた質の高い原稿を求められるようになる。

2017年 本を2冊出版

耳のホームページで公開していた内容をまとめた書籍と、資格取得のための時間活用術についての本を出版する

2018年1月

セミナー講師デビュー


ストアカに登録していた講座内容を見た人からのリクエストがあり、セミナー講師としての仕事を始める。

月に1度の開催をと考えていたが、1年目に20回以上の開催を達成する。

2018年 発破技士試験

学科試験のための勉強をするうち、怖くなって実技講習を受けるのはやめようと考え始める。

しかし「実技は怖いから受けたくない」と話すと、ディンギークラブの先輩方から非難轟々となり、8月に東京の実技講習を受講。

この試験ほど、多くの人に励まされた試験はない。またのちのライター業、講師業へのインパクトも、他の資格にくらべてはるかに大きかった。

免許証の申請が遅れたため、平成の終わりに免許証が届いた。